動物惨殺
私は会社を出ると、背伸びを一つした。
「課長ー」
後ろから調子の良い声がした。中山 拓が会社から出てきた。まだ何年か前に入ったばかりの新人だ。後ろからある程度古株の──私ほどではないが──宮野
光、松本 秀人が続いて出てきた。私は今晩彼らに奢ってやる約束をしていた。
「関根さん今日はどこで飲むんですか?」
宮野が明るい声で尋ねてきた。
「そうさなぁ、近くに新しい居酒屋ができたらしいから、そこに行こう」
昨日私が新聞で手に入れたチラシを鞄から取り出した。
「“雛見酒”……でしたっけ?」
松本が云った。彼もチラシを見たらしい。
「ああ、焼酎が旨いらしい。そんなに遠くもないはずだ」
私たちは雑談を交わしつつ、居酒屋雛見酒に向かった。15分程度歩くと目的の店が見えてきた。達筆の筆で書かれた、味のある木製の看板がかかっている。
店を出ると、もう午前1時前だったと思う。全員顔を赤くして、宮野などは特にご機嫌だった。私もかなり機嫌が良くなっていたから、つい見栄を張って、彼らに一万円ずつタクシー代を押し付けた。別に金持ちなわけではない、完全に見栄である。
「関根さん、いいんですか?」
「いいんだよ。たまにはな」
そう私は笑って云って自分の分のタクシーに乗り込み、彼らに別れを告げた。
──私はこのとき、これが最後の別れになることを、まだ知らなかった。
私、北山 我聞(ガモン)が現場に赴いたのは13時過ぎのことだ。現場は都心から少々離れた郊外にあり、なかなか距離があった。まだ真新しい白い壁のその家で、43歳のT製薬課長“関根
信”が遺体となって発見されたのだ。会社に出社せず連絡も無いので、不審に思った社員が関根宅に赴き、その際に変わり果てた被害者を発見した。
さほど大きくはないとはいえ、西洋風の庭付き一戸建てであるその家は、アパート暮らしの私から見れば随分と羨ましいものだった。私は洒落た扉から玄関に入った。玄関には花瓶に花が一輪挿しで生けてあり、とても男の一人暮らしには思えなかった。
玄関からささやかな廊下を抜けて、私は現場のリビングへと入っていった。
他の部屋よりやや広く、ダイニングも兼ねたその部屋の中央付近に遺体をかたどったロープが生々しく置かれていて、すでに現場検証が始まっている。何度見てもこれだけはどうも苦手だ。
「北山刑事!」
ひとりの警官が近づいてきた。たしか今年配属になった……秋山
烏(カラス)だったか?
「ああ秋山君。報告を頼めるかい?」
「そのつもりです。えー、被害者は“関根 信”43歳。T製薬の営業一課課長で、勤続20年近いベテランです。勤務態度は非常に真面目。今までほとんど問題も起こさず、近頃昇進の話しもでていたそうです」
「出世街道に乗りつつあったってことか。それが今回殺された……」
「ええ。直接の死因は脳挫傷で、背後から鈍器で一撃を貰ったようですが、これがかなり凄い力だったようで、辺りにかなりの量の血が飛び散っています。返り血も相当なものだったと思われます」
気が進まなかったが、ロープの周りに目をやると大量の血の跡があった。
「何か変わったことは?事件ががあった以外で……」
「強いて言うなら凶器が見つからないことでしょうか」
「そこにある置物とかは違うのか?」
私はロープから離れていない位置の、サイドボードを指差した。手ごろな大きさの置物がいくつかあったからだ。サイドボードには他にもレジ袋を貯めた小さな籠や固定電話などが置かれていた。
「ルミノール反応が検出されないので、おそらく違いますね。犯人が持ち去ったものと思われます」
──持ち去った?個人が特定できる物なのか?
「物盗りという可能性は?」
「被害者の上着の財布にはまったく手を付けられていませんでしたし、部屋を荒らされた形跡もありませんでしたから物取りではおそらくありません」
「当日の行動は?」
「被害者はいつも通りに会社に出社しています。残業を終えて会社を出たのは午後8時ごろで、部下の“宮野
光”“中山 拓”“松本 秀人”との四人で一杯ひっかけにいくところを社員の一人が目撃しています」
「最後の晩酌ってわけか……かわいそうに。親族には知らせたのか?」
「ご両親には知らせました。被害者には妻や子供はいません」
「死亡推定時刻は?」
「まだ出ていません。分かり次第お伝えします」
「そうか……」
腕時計に目をやる。
「発見から二時間か……これだけ捜査が進んでいれば上出来か……」私はそれからしばらく現場を見て周り、捜査官に二、三質問をしたが、特にめぼしい発見はなかった。
一時間ばかり調べた私は、休憩を取ろうと現場をあとにした。自分の旧式セダンに乗り込むとキーを回す。いつもはなかなかかからないのだが今日は一発。今日はなかなかついているらしい。
ラジオを付ける。ニュースを聴こうと思ったのだ。
「こん……か……発見さ……」
“バンッ!”
思いっきりカーステレオをひっぱたく。コイツの扱いはよく心得ている。
「猫は今朝砂浜を散歩していた村山 徳さんに発見されました。この猫はスーパーのレジ袋に詰められ何度も暴行を繰り返された様子で、袋は血だらけになっていました。この猫はT川に投げ込まれ、浜まで流れついた模様で、灰色の毛の大きな猫で、首輪がないことから野良猫かと思われます。今回の猫で、被害にあった動物は三匹目になります」
最近頻発している連続動物惨殺事件のニュースらしい。犬に公園で毒を飲ませて放置したり、改造エアガンで打ち抜くなどの行為で動物達が次々と惨殺されている。
今回の事件といい、まったく嫌な世の中になったもんだ。
私は目的地である図書館の前に到着した。ここが一番落ち着けるのだ。
室内に入っていくと、テーブルの一角に見覚えのある少年を見つけた。
「ホームズ君じゃないか。今日学校は?」
「春休みですよ。あといい加減その呼び方辞めてくださいよ」
本から視線を上げつつ、少年は苦笑気味に答えた。
「まあいいじゃないか」といいつつ私は向かい側の席に腰を落とした。
“ホームズ君”というのは無論あだ名で、彼の本名は“和戸部(ワトベ) 和己(カズミ)”という。
ホームズ君というあだ名は私が彼と初めてあったときに、“緋色の研究”を読んでいたから、といういい加減な理由で、彼はあまり気にいっていないらしい。
彼とはこの図書館で知り合った。正確な年齢はしらないが、中高生くらいだろう。
私たちはしばらく雑談し、その後図書館の隣にある、喫茶「銀星号」へと行くことになった。
図書館から歩いて20秒のその店はコーヒーが実に美味しい。ブラックで飲むのが通なのだと、一度和己に言われたが、甘党の私はいつも砂糖を二つ入れる。落ち着いたBGMが流れる中、注文したコーヒーが運ばれてきた。いつものように砂糖を二つ落とす。
「また砂糖いれましたね」
「いいじゃないかホームズ君。甘いほうがうまい」
「分かってないですね我聞さん。コーヒーはブラックで飲んでこそ本当の味がでるんです。それを……」
「分かった分かった。今度試してみるよ」心にも無いことを云ってごまかした。
店に備え付けられたテレビに目をやると、丁度ニュースが始まったところだった。話題はどうやらあの動物惨殺事件らしい。これまでの詳しい経緯がなかなか正確に報道されていた。
「今回発見された猫で、被害は三件目になります。最初の惨劇は三週間前、公園で殺虫剤いりの餌を食べさせられた犬が死体で発見。現場には餌を食べさせた皿が残されていました。二度目の惨劇は6日前に近所の飼い猫が殺傷能力を持たせた改造エアガンで撃たれてその場に放置され、近所の住民に保護されたものの、感染症にかかり2日後に死亡。繰り返される惨劇……警察は一連の事件を同一犯の犯行とみて捜査していますが、まだ犯人は捕まっていません」
その後、なんだかやたら偉そうな専門家が一連の犯行に関して意見を述べていた。こういう専門家がどうも私は気に入らなかった。
「嫌な事件ですね」
「全くだよ。今回の事件といい、世の中どこか狂ってる……」
「今回の事件?」
「ああ、今朝起きた殺人事件……」
「殺人事件!さすがキャリア刑事ですね。どんな事件なんです?」
彼の癖がでた。普段はなかなか落ち着いていて、大人びている彼だが、何かあると子供のような探求心──と云えば聴こえ場はいいが、興味が沸くと、それに対して果てしなく貪欲になるのだ。こういうときの彼に目は、“キラキラ輝いている”というよりも、鈍い光を放っているように思える。
私は事件の概要を洗いざらいしゃべらされた。重要かそうでないかは問わず全てだ。
説明を終えるとだいぶ喉が乾いたので、目の前のコーヒーを一口啜った。まったく、“口は災いの元”とはよく云ったものだ。
しばらくして、時計を見ると、もうだいぶ時間が経っていた。
「ホームズ君、僕はそろそろ仕事に戻るよ」
そういって私は自分の分のコーヒー代をテーブルに置き(こういうところで私はセコい)腰を浮かせたが、和己が無反応なので、どうしたのだろうと顔に目をやった。
彼は──眉を顰め、妙な鹿爪面をしていて、こちらの声など聴こえてないようだった。
「ホームズ君」
もう一度和己に声をかけると、彼はようやく「え?なんですか?」といつもの彼に戻った。
「僕はそろそろ戻るよ」
「あ、はい。じゃあ進展があったらぜひ聞かせてくださいね」
和己はにっこり笑った。
現場に戻ると秋山が進展を報告してくれた。
「北山さん。死亡推定時刻が分かりました。午前5時から午前6時までの間です」
「随分朝が早いんだな。彼に恨みを持つ者は?」
「これといって捜査線上には浮かんでいません・・・・・・しかし他人の考えていることなんて分かりませんから」
「確かにな」
それから私はちょっと考えてから尋ねた。
「事件の前夜。被害者は部下と呑んでいたんだったな?彼らのアリバイは?」
「それはまだ聴取が取れていません」
「部下たちは今家にいるのか?」
「事情を聴きたいので家で待機していて欲しいと会社に頼んであるので、そのではずです。いつでも聴取はできます」
「そうか……よし、僕が直接聴きに行こう。他に進展は?」
「これといってありません。時間が時間だけに、目撃者はいないようです」
その後私は改めて現場を見たが特に収穫はなかった。
私はその後秋山と現場で別れ、車に乗り込み、関根の部下たちに事情を聴きに向かった。
私はまず松本秀人宅に向かった。
現場を出てから30分ほどすると、T川に差し掛かった。橋を渡ってさらに進むこと10分。秀人が住む分譲マンションに到着した。白塗りの6階建てのこのマンションは、まだ真新しく見えた。築数年といったところか。近くにゴミ捨て場もあり、なかなか便利なところである。
秀人は3階の303号室に住んでいた。インターフォンを鳴らすとすぐに出てきた。
「松本秀人さんですね?」
「ええ……警察の方ですか?」
秀人が尋ねたので、
「そうです」と答えた。
「どうぞ」といって招き入れられた。
中はそこそこ広かったが中身が入った、市指定のゴミ袋がいくつか散乱していた。
「……寝過ごしてしまってゴミを出せなかったんですよ」
頭をぼりぼりかきながらぶっきらぼうに弁解しつつ、奥の部屋へ通してくれた。
通された部屋で待っていると、秀人がコーヒーを運んでくれた。いつものように砂糖を二つ落とした。
「この度は……本当にご愁傷様でした」
私は無難に切り出した。
彼は無言で、少々顔がやつれているようにも見えた。無理も無い。
「……何を知りたいんです?」
「……関根さんは誰かに恨まれていたということはありませんか?」
「さぁ……おそらく無いと思いますね。彼は……真面目でいい人ではあったんですが、どうも人付き合いが苦手だったらしくて、私達……つまり昨夜呑んだメンバーですが、それ以外には特に親しい人物がいなかったんです。だから恨まれるというのはちょっと……」
「そうですか……ところで、関根さんが殺されたのは午前5時から6時の間なんですが、あなたは何をしてました?」
「部屋で寝ていました。あいにく独り者なものですから、証人はいませんが」
「そうですか、不愉快かもしれませんが仕事なもので、御容赦ください」
「分かってます。お役に立てるのなら何でも訊いてください」
その後、いくつか質問したものの、あまり有益な情報は得られず、部屋を後にした。
その後、付近の住民に聞き込みをしたところ、7時頃に部屋から出る秀人が目撃されていた。コンビ二朝食を買いにいくと、目撃した住人には説明していた。後にコンビニで聞き込みをした結果、事実であると判明した。しかしそれ以前のアリバイは確認できなかった。
私はマンションを後にし、元来た道を戻った。──他の二人の家は反対方向にあるのだ。
先ほどと同じ時間をかけて現場の関根宅を通り過ぎ、まずは宮野光宅へ向かった。
現場から30分くらい住宅街を抜けていくと、ようやく宮野宅が見えてきた。関根の家ほどではないが、なかなか立派で上品な、小ぶりの一軒家である。
インターホンを鳴らすと、ちょっと間があった後、宮野光が扉から顔を出した。警察手帳を見せるとすぐに中に入れてくれた。
小奇麗な玄関に入るとすぐ横に銀の額縁に入った絵画が目に入った。海の絵だ。海に注ぎ込む川、海に沈みこむ夕日が濃厚なタッチで描かれていた。普段芸術にはとんと疎い私だが、この絵には思わず感傷的になっていた。それに気付いた私は思わず苦笑した。
「……良い絵ですね」
思わずそう話しかけていた。
「ええ。安物なんですけどね、僕も気に入ってる絵なんですよ。店で初めて見たとき、この海の蒼に呑みこまれた……というかなんというか。一目惚れして買ってしまったんです」分かるような気がした。
廊下を抜けたところの洋間に通された。光は紅茶を運んできた。当然のごとく砂糖を二つ落とした。
「関根さんについて……少々伺いたいのですが」
無論予想はしていたのだろうが、やはり少々おどおどしながら「僕の答えられる範囲でしたら」と、承諾してくれた。
「犯行はどうも窃盗が目的ではなく関根さん自身が目的だったようなんです。それで……関根さんは恨みを買うようなことはありませんでしたか?」
「そう……ですね。僕らには良くしてくれましたけど、他の人達とはあまり付き合いがなかったみたいでしたから……少なくとも僕は知りません」
「金銭トラブルといったことも無かったんですか?」
「無かった……と思いますね。あの晩も奢ってくれた上にタクシー代までもらいましたから。羽振りはよかったんだと思います。仕事も真面目にこなしてましたから」
「殺される理由はなかった……ということですか?」
「断言はできませんけれど……少なくとも僕はそうだったと思います」
「そうですか。ところで、関根さんは今朝の5時から6時の間に殺害されたのですが……その時は何をしていましたか?──気を悪くしないでください。一応聴くだけですから」
「その時間は家にいましたね。証人はいませんが……ただ6時10分くらいにジョギングに出かけました。仲間二人と一緒に三人でね。最近毎朝通勤前にやってるんですよ。本当は6時に私の家を二人が訪ねてきて、そこから出発する予定だったんですが、一人が遅れたらしくて、彼らがくるのがちょっと遅くなったんです」
「その二人は会社の方達ですか?」
「いえ、近所のN公園でジョギングを初めたときに出会ったんです。彼らがいなければ、今頃はとうにジョギングなんて辞めていたと思いますね」
「そのお仲間の名前と住所……教えていただけますか?」
「もちろんです」
そういうと彼は手近な紙を破り、サラサラと書き込み、手渡してくれた。
「他に質問はありますか?」
私はちょっと考えてから、
「いえ、これで全部です。まだ行くところもあるので、これで失礼します」
と云った。
彼は玄関先まで私を送ってくれた。
玄関を出るときにあの絵にまた目をやった。気のせいか、海の蒼がさらに深みを増していたように思えた。
セダンに乗り込んで中山宅に向かった。国道をタバコ五本分の時間走り続け、交差点を左折した。またしばらくの間、タバコを灰にしながら道を走り続けると、目的の場所が見えてきた。車を止め、目的のアパートであることを確認し、部屋の番号を確認した。“203号室”だ。
自分の住んでいるアパートとついつい比較しながら、金属製の階段を音を立てて昇っていった。三階にたどり着いてすぐに203号室は見つかった。少々古いインターフォンを鳴らした。部屋の中から返事が聴こえたので、どうやら壊れてはいなかったらしい。
出てきたのは若い女性だった。玄関先の男に不信感を抱いた様子だったので、私は慌てて用件を切り出した。
「私は北山と云う者ですが、亡くなった関根さんのことを……」
「あ、ちょっと待ってください」
そう云うと彼女は部屋の中に入っていき、
「タクちゃーん。刑事さんが見えてるわよ」
すぐに“タクちゃん”こと中山 拓が現れた。手早く用件を伝えると、部屋に通された。
女性が番茶を運んでくれた。
「家内です」
と彼が彼女を紹介した。事件の関係者で唯一の既婚者らしい。私とさして年が変わらない拓を見て、ちょっと羨ましく思えた。
「関根さんは……何か恨みを買うような人物でしたか?」
「物盗り……ではないのですか?」
「何も盗まれていないんです」
「殺して怖くなって逃げたとも考えられるでしょう?」
「確かにそうです。しかし怨恨という可能性も十分考えられますから、こうして伺ってるわけです」
「少なくとも僕は知りませんし、恨みを買うような人物ではなかったはずです。とてもいい人で、お世話になりました」
「ところで……今朝のことなんですが、いったい貴方は何をしていました?」
「……アリバイ調査ですか?」
「皆さんに伺ってるんです。気を悪くしないで、答えてください」
「今朝は……ずっと寝ていたと思います」
「そうですか」
「あの……」
隣に座っていた彼女──そういえば名前を訊いていなかった──が口を挟んできた。
「何でしょう?」
「私、いつも朝主人のために弁当を作ってるんです」
「はぁ……愛妻弁当というやつですか」
「それで私はいつも主人より早く起きるんですが、朝弁当を作るために起きると主人はちゃんと横で寝ていました」
「何時ごろでした?」
「ええ、おそらく6時半……よりちょっと早かったかしら」
「関根さんが殺されたのは午前5時から6時の間なんですよ。ええと、ここから現場までは──40分くらいですかね」
「ええ」
「つまりこれではご主人のアリバイは成立しないんですよ」
「では……警察は主人がやったと、そうお考えなんですか?」食って掛かってきた。
「いえ、そういうことではありませんが、ただ犯行が可能な状況のようですからある程度容疑が掛かる可能性はあります」
さらに反撃を受けた。私はこういう状況が苦手で、ただただ「ごもっともです」を繰り返すしかなかった。そのうち拓が助け舟を出してくれて大人しくなった。彼女からしてみれば私は幸せを脅かすかもしれない存在なのだから、敵意を持たれてもしかたないのかもしれないが、いやはや、そうは分かっていてもやはりあの剣幕は怖かった。
他にも幾つか質問をしたが、大した答えは得られず、部屋を退散することにした。部屋を出るとき拓が見送りに出てきて、「妻はその……少々心配性でして」と弁解してきたので、私は笑顔で「分かってますよ」と返しておいた。
40分程空いた道をタバコを灰にしながら走ると、現場に戻ってこれた。秋山に声をかけると、そろそろ引き上げるところだと話してくれた。もうめぼしい物は見つからなかったそうだ。私はその後署に引き上げて報告書を書いた後、自分のアパートに帰宅することにした。今日の捜査は終了である。
私のアパートは署を出てすぐの国道を10分ほど進み、十字路を左に曲がり、さらに5分程進んだところにある。アパートの横にある青空駐車場に慣れた手つきでセダンを滑り込ませた。金属製の古い階段を音を立てて二階まで上がり、二つ目の“202号室”が私の部屋である。少々錆びた鍵を回し、扉を開けて入っていった。
玄関を上がってすぐの位置に手をやり蛍光灯を点けた。入ってすぐのダイニングキッチンと六畳の和室、そして洗面所とトイレと風呂。これで家賃は五万三千円。自分ではそこそこ気に入っている。直ぐに買い置きのカップラーメンを作り頬張った。私は料理が不得意というわけでもないのだが、今日は作る気になれなかった。食後に風呂を沸かし始めた。銭湯に行こうかとも考えたが、面倒なのでやめた。
風呂が沸くまでの間、三人の証言を整理した。
いずれの人物にも動機らしきものは一応無しだが、隠しているのかも……他に親しい人物もいなかったという。怨恨による事件だとすればこの三人の中の誰かだろう。松本秀人は7時頃にマンションで目撃されている。しかし死亡推定時刻は5時から6時で、現場からマンションまでは40分だから犯行は十分可能だった。次に宮野光だが、彼は6時10分に仲間とジョギングに出かけている。しかし現場から30分の位置に住んでいるため犯行は可能……最後に中山拓。彼は6時30分に奥さんに目撃されている。嘘……という可能性は今回は除外してもいいいだろう。そもそもこの証言では現場から40分の位置に住む拓のアリバイにはならないからだ。
──つまり。犯行は全員に可能だった。いや、拓が云っていたように、殺してしまった強盗が怖くなって逃げたということもありえる。
そこまで考えたとき、唐突に風呂のことを思い出して慌てて席を立った。風呂は溢れる一歩手前だった。危ないところだ。
風呂に入りながら、今日の捜査を思い出した。なかなか順調に進んだと思う。このままいけば、数日中には解決するだろう。私はこのときそう思っていた。
翌日からはほとんど付近への聞き込みであった。大した証言はほとんど得られない。はっきり云って退屈である。楽しみと云えば、休憩中に銀星号や図書館に行き、和己と雑談を交わすくらいなものだ。家に帰れば飯を食い、風呂に入って寝る。そんな日々が幾日か続いたある朝。そのニュースは入ってきた。
それは捜査から帰ってきて飯を食い、TVを見ているときだった。報道番組を見ていたのだが、あの動物惨殺事件を取り上げたのだ。すっかりこの事件を忘れていた私はしばらく見ていると、新たな事件が起きたことを知った。現場は光がジョギングを始めたN公園であった。被害を受けた犬は喉をナイフで引き裂かれていた。しかし私が驚いたのはこの後の報道である。
「今回の事件で一連の惨殺事件は四件目になります。そして三件目の猫は当初野良猫と見られていましたが、飼い主が申し出たため飼い猫であったことが判明しました」飼い主の家が画面に映し出された。
「この惨殺事件はいつまで続くのでしょう。早急な解決が望まれます」
すでに私の耳にはキャスターの言葉は入ってこなかった。画面に映し出された家──正確には飼い主の家の隣の家だが──に見覚えがあったのだ。紛れも無い関根信の家であった。
私の頭に浮かんだ推理は“隣の猫を手にかける現場を目撃されたので関根信を殺害した”という考えだった。
十分ありえると思った。
進展の全く無かった捜査に希望を見出せたような気がした。
翌日からその線で捜査を開始した。
しかし、向こうの担当刑事に話を訊いたところ、大したことは分かってないそうだ。三日間休む間も無く捜査を続けたが、猫が最後に家族に目撃されたのはあの事件の前夜(正確には12時頃)であった。つまり猫が死んだのはあの日に間違いないのである。しかしそれ意外は全く進展無し。やはりこの線は違うのだろうか?
気分転換に銀星号に向かった。このとき私は、この行動がとてつもなく重要な行動になることになることは知らなかった──
銀星号に入っていくと和己が窓際の席にいた。
「おい、ホームズ君」
声をかけると直ぐにあちらも気づいたようだった。席についてコーヒーを注文した。
「しばらく見ませんでしたね」
「三日ぶり……かな。このところ捜査が忙しくてね」
彼には会うたびにその持ち前の話術で捜査状況をずるずると引き出されてしまった。よって彼はこの関根殺しについてほとんどの知識を得ていた。といっても、ここ数日会っていないので“動物惨殺の犯人=関根殺しの犯人”という仮説は知らない。知っているのは事件の概要や三人の証言である。
「進展はありました?」
ストレートに訊いてきた。直球で尋ねて来たのは初めてである。
私は仮説について説明した。彼は幾分驚いたようだった。
「殺された猫は関根家の隣の猫だったんですか?」
「ああ、ニュースでもやっていただろう?」
「最近テレビ見てなくて」
「ふうん。ところで……」
そこまで云って言葉を止めた。彼には聴こえていないようだったからだ。例の鹿爪面で、目は鈍い輝きを放ちはじめていた。
しばらくの沈黙の後、
「おいホームズ君」
と声をかけると、
「ちょっと静かにしてください!」
と怒鳴られた。私は不当に怒られた子供よろしく、黙り込むしかなかった。
妙な時間だった。怒鳴られてから数分たった頃だっただろうか。
「我聞さん」
「はい」
「ちょっと出てきます」
「え?」
「もっとゆっくり考える時間が欲しいんです」
「何を考えるって云うんだい?」
「もちろん犯人についてですよ」
「人物像を考えるのか?」
「そうじゃない、そういうことじゃないんです。犯人が何をしたのか僕には分かったんです。だから後は誰がやったかというだけなんですよ」
「何!?君には全てが分かったというのかい!?」
「だから分かったのは何をしたのか、何故そうしたのかという点です。犯人が誰かというのはこれからです」
「やったこととはどういう意味だ?関根殺しと動物惨殺だけじゃないのかい?」
「違う、そうじゃない。そうだけれどそういうことじゃないんだ」
彼は苛立だしげに頭をぼりぼり掻いた。
「ならこれだけ教えてくれ、この事件は動物惨殺事件と繋がっているのかい?」
「そうでもあるしそうでもない」
歯切れの悪いことを云う。
「今何時です?」
「2時過ぎだね」
「何時頃なら会えます?」
「携帯に連絡をくれればいつでも」
「なら僕はこれから図書館に行って、考えをまとめてきます。まとまり次第連絡をいれ、ここで落ち合う。これで大丈夫ですか?」
「僕の方は問題ないよ」
「ならそういうことでよろしくお願いします。それと……一つ頼まれてくれませんか?」
「なんだい?」
電話が入ったのは3時半をちょっと過ぎた頃だっただろか。彼は6時に来て欲しいと云ってきた。随分遅いな、と思いつつも私は了承した。
5時45分頃に銀星号に入店した私は、入り口のガラス戸が見える席に座り、コーヒーを注文した。傍らには和己に頼まれたものの結果の書類が置いてある。
コーヒーを半分程飲んだところで、入り口にタクシーが横付けされるのが見えた。そして中から出てきたのは和己だった。図書館からここまではタクシーを使うような距離では絶対にない。彼は何やら運転手と話し込んでから店に入ってきた。
直ぐに私を見つけたらしく真っ直ぐこっちに来て席についた。
「待たせました?」
「いや。図書館にいたんじゃなかったのかい?」
「どうしても自分の目で確認したいことがありましてね」
私はコーヒーを一口含んでから話した。
「望みのものだよ」
傍らの書類を渡した。彼はコーヒーを注文してから書類に目を通し、勝ち誇ったかのようにニヤリとした。
「例の猫が詰められていたレジ袋の中の血液の大部分が関根信の血液と一致した」私は溜め息混じりに説明した。
「ホームズ君、これはどういうことなんだ?君はこんな結果が出ることが分かっていたんだろう?」
“まあね”っと、彼の表情が代弁していた。
「あの仮説は違うのかい?」
「違いますね」即答だった。
「そもそもです。朝の5時頃と云えばまだ薄暗い時間です。起きていたのなら当然電気が点いていたはずです。犯人はそれに全く気付かずに、おめおめと犯行を目撃されたのでしょうか?少々間抜けすぎはしませんか?」
いわれてみるとそんな気がしてきた。
「じゃあやはりこの動物惨殺事件は関係なかったわけだ」
「そういうことじゃありません」
「話しが見えないな。一連の動物惨殺事件と関根殺しが無関係だと今君は云ったじゃないか」
「一連の事件は関係ありません。ただね、同日に隣家で起きた事件だけは関係あるんです。袋の血の件をみても明らかでしょう?」
「……」
「最初から順番に僕の考えを説明しましょう。この事件はそうした方が分かり易いですから」
そこまで話したところで、彼のコーヒーが届いた。彼はいつものようにブラックで一口啜ると説明を始めた。
「さて、犯人はまず明け方の5時頃かそれ以前に関根宅を訪問しました」
「何故だい?」
「知りませんよ。多分動機に関連する理由なんでしょうけど、こればっかりは推理しようがありませんから。けれど、この時彼には殺意が無かったことだけは確かです」
「何故そう云えるんだい?彼って云ったけど、犯人は男なの?」
「何故そう云えるのか……それはそのうち分かってきます。犯人はあの三人の内の一人ですから当然男ですよ」
「……」
「続けますよ?そこで犯人は何らかの理由で殺意が湧いた」
「さっきから聴いてると分からないことだらけじゃないか」
「我聞さん、この事件に関して動機だけは推理のしようが無かったんですよ。それはそちらで調べてくれればそのうち判明すると思いますよ」
「……分かった」
「さて、殺意が湧いた犯人はどうやって殺したのでしょうか?なんの準備もしていない。手袋すらない。普通の指紋なら拭けばいいが、血染めの指紋はそうはいかない。後からバレてしまう。なるべく痕跡は残したくない。そこで彼は凶器をレジ袋に入れて被害者を殴ったんですよ」
「何!」
確かにそうすれば痕跡は残らない。凶器らしき物が発見さえなかったのにも説明が付く。何のことはない、最初から凶器はあの部屋に有ったのだ、サイドボードに有ったあの置物だ。
「さて犯人は痕跡を殆ど残さずに被害者を殺した。けれど、今度はその袋の処理に困った。調べられれば被害者の血……直ぐに自分の犯行とバレる訳ではないが、どう考えても見つからないに越したことはない。さて、どうしよう。そんなときに彼の目に入ってきたのがあの猫なんですよ。彼はその猫を殺して袋に詰めた!こうすれば見つかってもこの袋の血は猫の血だと思われ血液の照合などされるはずがない。多分このとき彼はこの猫を野良猫だと思ってたんでしょうね。じゃないと隣の猫を殺すなんて危険なことをするはずがありませんからね。こうしてこの袋詰めの猫を川に放り込んで消し去り、万が一発見されても足が付かないようにしたんです」
そこまでまくし立てて、和己はコーヒーを一口含み、それから続けた。
「猫は朝の内に散歩をしていた人物に発見されたんでしたね。つまり猫は事件の後直ぐにT川に投げ込まれたということです。
ここまでくれば話は簡単でしょう?現場から30分のところに宮野宅、40分のところに中山宅。
そしてその二つの家の反対方向に現場から30分行ったところにT川、更に10分進んで松本宅があります。
これは我聞さんの話だけではなく、さっき実際にタクシーで確かめてきました、朝方はとても空いているとはいえ、これくらいの時間は絶対に必要です。これは間違いない。
さて、死亡推定時刻は5時から6時、仮に5時だとしてもです、宮野が犯人だとすると現場からT川まで30分だから往復で1時間。そこから家まで更に30分かかる、どうやっても6時10のアリバイの時刻までに戻ってこれないんですよ。同じく中山も6時30分までに戻ってくることは絶対に不可能だ。可能だったのは……“松本秀人”!彼一人なんですよ」
犯人であり得るのは松本秀人只一人。私は無意識の内に反論の材料を探していた。
「ホームズ君、君の話は……その、証拠が足りないよ、決定的なものがね。ゆきずりの強盗が怖くなって逃げたという可能性だって拭いされてない。証拠が無いなら……」
「有ると思いますよ、証拠」
「……“思います”って」
「証拠が存在することは知っているけれど、それをこの目で見てはいない……というかできなかったんです」
「……一体どんなものなんだい?」
「洗濯機です」
「え?なんだって?」
「だから洗濯機ですよ」
意味が分からない。
「我聞さん、僕は先ほど“犯人は殆ど痕跡を残さずに”といいましたよね。完全に拭いさることができなかった痕跡があるんですよ」
「一体何なんだい」
「返り血ですよ」
返り血……
「被害者を殺し、猫で証拠を消し去り部屋に戻る。この時点でもう6時前です、こっそりと服を処分する時間が有ったでしょうか?いや、もうだいぶ明るくなり人が起き始める時間だ、見つからずに直ぐに処分することは不可能。ゴミに出そうにも、この付近のゴミ袋は透明で、棄てるのは危険すぎる。さて、我聞さんならどうします?」
「そうか……」
「そう!洗ったんですよ。血だらけの服をね。そうすれば無理に棄てる必要も無くなる上に、棄てるにしても、リスクは格段に低くなる。……僕が云いたいことはもう分かるでしょう?」
「ああ」
「犯人宅の洗濯機からはルミノール反応が出る。それも大量にね。松本の部屋を調べてみてください。出るはずですよ」
翌日私は単身松本秀人のマンションに向かった。彼の推理だけで、令状など取れるはずもないので全て任意でやるしかない。
ダメで元々だったのだが、玄関先で和己の推理を聞かせて、洗濯機への検査を要求したところ、あっさりと犯行を認めた。
本当にあっけない結末であった。彼は取り調べにも素直に答えた。以下にその供述を掲載する。
私が関根を殺しました……動機は私が現在付き合っている女性です。彼女は関根と不倫をしていたんです。私が問い詰めると双方ともそれを認め、平謝りに謝りました。彼女と関根は別れると云い、私はそれ以上責めることができませんでした。随分前も話です。
それからも、会社での付き合いは普段通り続ける必要がありました。それまでと態度を一変させれば、何かあったと周りに気づかれますから。
しかし最近になって、また二人の様子がおかしくなってきたんです。私は怖くて……問い詰めることができないでいました。それがあの夜……酒が入って気が強くなっていた私は、我慢できなくなってあいつに電話したんです。
電話では、私が一方的に怒鳴り散らしたと思います。
彼は時間も時間だから後日と云ってきたんですが、私は直ぐに決着を付けてしまいたいと言い張ったんです。彼は今はお互いに酒が入っているから無理だと云ったんです。私はどうしても今日中にと譲らなかったので、彼はそれならせめて明け方にしてくれ、その頃にはお互い酒も抜けているだろうからと云ったんです。私はしばらく説得されて、ようやく承諾しました。
4時頃にマンションを出ました。その頃には私は流石に落ち着いていました。彼の家に着くと私はあの現場の部屋に招き入れられ、そこで話し合いをしました。
やはり彼は彼女と再び不倫をしていたんです。彼はそれを認めました。そのときに……謝ってくれれば、結局最後は許していたと思います。けれど彼は開き直って、私を侮辱してきたんです。どんな事を云われたのかは云いたくありません。
そのとき殺意が湧きました。来るときはそんなつもりは無かったので、手袋すらありませんでした。痕跡を残さないために、隙を見て、サイドボードの置物を側の籠にあったレジ袋に入れてそれで思い切り殴りました。私は恐ろしい程冷静に、これをやってのけました。
思ったより血が吹き出て、返り血を浴びました。さすがに強く動揺しましたが、ヘマはしませんでした。今度は袋をどうするか考えました。そんなとき、ガラス戸から覗き込むあの猫が目に入ったんです。首輪がないので、野良猫だと思い、証拠隠滅のために利用できると思いました。
ガラス戸からゆっくり庭に出て行き、袋に猫を詰めてめった打ちにしました。最初は暴れましたが、段々動かなくなりました。
私はその袋を持って自分の車で現場を立ち去りました。凶器の置物は元の場所に戻しておきました。
T川の付近で、一目の無いことを確認して、川に例の袋を投げ込んで処分しました。そのまま直ぐに部屋に戻りました。誰にも見られませんでした。
私は返り血を浴びた服を洗濯機に入れ、自分も入浴して、血を洗い流しました。
その後は普段通り生活するよう心がけました。刑事さんが訪ねてきたときは流石に落ち着けませんでしたが、上手くごまかせたと思いました。
しかしもうこうして捕まってしまった……やっぱり悪いことはできないものですね。
真相は殆ど和己の推理通りだった。松本秀人の逮捕の翌日、私は銀星号で和己と落ち合った。事件の顛末を教えてやるためだ。
しかし私が語った犯人の動機などのことに彼は大した興味を示さなかった。彼にとってはもう過去のことでしかなかったのだろうか。
「なあホームズ君。君にはどうして分かったんだい」
「もちろん、我聞さんが猫が隣家の猫だったことを教えてくれたからですよ。同日の夜に隣同士で殺しが起こった……まあ一方は猫ですけど。偶然には思えない。やはりあの仮説が正解なのか?いや、これだと不自然な点(この前話した奴ですね)が残ってしっくりこない。
しかし偶然とも思えない。だからあの夜の事件のみが関わっていたと結論を出したんです。後は今までの材料を照らし合わせていくとだいたいの状況が推測できたので、我聞さんに血液検索を頼んで図書館へ行った。図書館で考えをまとめてから、タクシーで掛かる時間を確認して、最終的な結論を出したんですよ」
「ふうん……ところで、一連の動物惨殺事件も解決したそうだよ。20代の男が犯人だったらしいよ」
「精神異常者……ってやつですか?」
「どうもそうらしい、責任能力の有無が裁判の焦点になるだろうね」
私はコーヒーの残りを飲み干した。
「ところで君、今日はどうもおかしいよ」
「そう……ですか?」
「ああ、何かこう……そわそわしてるというか」
「気のせいですよ。あ、僕は用事があるんでこれで失礼します」
自分のコーヒー代を置いて、彼は出ていった。……やっぱりおかしい。
アパートに帰るとその理由が分かった。扉に一枚の紙切れが挟まっていた。何だろうと見てみると請求書だった。
“請求書 運賃:一万二千円也 Y交通”
裏に走り書きがあった。
“必要経費ってことで byホームズ”
つまり、調査のためにあの三人の家を回ったときのタクシー代が払えなくて、こちらに持ってきたという訳だ。
普通なら怒るところなのだろう、しかし今回彼のおかげで立てることができた手柄の大きさを考えれば文句を云う訳にもいかなかった。懐具合を確認するため、私は財布の中身を見た。
少し蒼ざめた。
了
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